ベウラの地へと −この地にたどりついたいきさつ
我が魂よ、主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩編 一〇三・二
今日はベウラ陶房の創設記念日。昨夜の小雪が曇り空の下に溶け残り、静かな休日を迎えている。どこが節目ともなく窯焚きから窯焚きと追われるうちに、気が付けば十年が過ぎていた。独立二年目の結婚、七年目に三越での初個展。以後個展活動に入った。ここまで支えられ、仕事もそれなりに進み、主のあわれみとお恵みを覚えるばかりだ。独立後のことをいろいろ思い出すが、まずはこのベウラ陶房始まりのこの土地が決まるまでの過程を時が経ち忘れてしまわぬうちに記しておきたいと思う。
退職後の住まい探し
益子町の塚本製陶で五年間、正確には五年と五日間勉強させていただいた。
十二月初めで契約の丸五年となる。焼物で独立するためには敷地と窯と仕事場が必要となるが、まだ土地も動き方も定まらなかった。その頃事務所から呼び出され、退職後の住所が決まらないと退職の手続きが取れないといわれた。仮住まいでもよいから住まいを決めねばならない。「わかりました」と小声で返事をして私は事務所を出た。
さてどうすればよいのか。研究室に戻ると助手の宮本君が「それであてはあるんですか?」と心配そうに尋ねた。「大丈夫。祈って出かけるよ。」私は半年程前にキリストを信じてクリスチャンとなっていた。「神はきっと助けてくれるはずだ」心にそういう思いが現れた。その夜、私は一生懸命祈った。「どうか住める所がありますように」。目の前に困ったことができて祈ったのは初めてだったような気がする。
翌日は午前中勤めて、午後工場長から休みをもらい家を探しに出た。どこへ行ったらよいか分からないが、茂木町に車を進め大瀬方面に入り、できたばかりの未舗装の山道を上った。突き当りを何となく右に折れると、その先の道下に家が見えた。行ってみようと坂を下りた。六十歳くらいの二人(小原沢喜志夫さんと堀江ヨシさん)が炬燵で話をしていた。
私は、実はこれこれしかじかで家を探している。風呂と台所があり住める所はないかと尋ねた。喜志夫さんが少し考えて、「ふるさとセンター前の「老人憩いの家」が空いているが、役場のものだから役場に尋ねてはどうかと勧めてくれた。
さて茂木町の役場には一度も近づいたことがない。何もわからない。ふと思い出したのが塚本での先輩樋口彰一君である。樋口君が役場の人と親しく付き合っているのは知っていたので、まず「彰ちゃんに相談してみよう」とその足で樋口宅を訪ねた。もう夕方も日暮れだったろうか。しかじかで役場に尋ねたいのだがと話し終えたところに一人の男性が現れた。「ああ大久保さんだ。ちょうどいい。あの人に話せばいい」と彰ちゃんが言う。その人は茂木町役場の観光課の課長であった。そこでまた事情を話すと「憩いの家」は公共施設だから個人に貸せないが、ちょうど良い貸別荘があるから紹介しようということになった。
農家に人がいなくなり、空き家になったものを観光課が斡旋して貸別荘として貸し出すことが始まっていたのである。翌日だったか、何日後かは忘れたが、課長の案内で家を見に行った。那珂川のすぐほとりで良いところだった。茅葺でこじんまりしてなんとも風情がありいいなあと思った。
ところが鍵を開けて中に入ると土間はかびで真っ白、天井のない屋根裏は蜘蛛の巣だらけ。襖はぼろぼろ、雨漏りで畳が数か所黒く痛んでいた。「程度のいい方ですよ」と言われたが、そのときの自分にはとても人が住めるとは思えなかった。「考えてみます」と返事して私は帰った。考えても仮住まいには掃除や補修に手間がかかりすぎると思った。何日かして大家さんに断りを入れた。その直後宮本君が「その家は広いんでしょう。僕が一緒に住める場所はありませんか」と言い出した。「だってもう断ってしまったぞ。・・・でも一緒に掃除してくれるなら借りようか。」それでまた出かけて行って貸してもらうこととなった。
十二月二十五日に掃除にとりかかった。天井の蜘蛛の古巣を払い、襖、障子の張替え、畳を磨き、水道の漏れを直し先住人の不要物を捨て、来る日も来る日も掃除、手入れに明け暮れてしまった。家周りの木の葉もさらい、植木の手入れなどしてようやく住まいらしくなった。
土地探し
さて土地探しである。ここならと思う眺めの良い落ち着いた場所があったので誰の土地であるかを尋ねた。それはTさんの土地であった。私は緊張した。「私はここで仕事をしたい。もし断られたらどうすればよいのだろう。」恐ろしいが話し出さねばならない。私は祈り、手土産を持って教えられた家を訪ねた。
用件を告げると何のかのあれこれと尋ねられたような気がする。答えは「しばらく考えさせてくれ」だった。いつ行ったらよいか分からない。毎日昼は家周りなどの片付け、夜は聖書を読み祈って待った。二週間が過ぎた。私は出かけてみた。すると「もう少し考えさせてくれ」ということだった。役場にも相談に行ったりしたようだ。同じようにまた二週間が過ぎた。私は尋ねた。するとまた「もう少し考えさせてくれ」というのだ。私は喜志夫さんとも会って話を進めてもらえないかとお願いもした。そして一週間待って出かけて行った。私は「この土地と仕事をお捧げしますから、この地を定めて下さい。」と神に祈った。 Tさんの答えは「もう少し待ってくれ」であった。
また一週間後出かけた。「どこの場所だ」と今頃どこかと聞かれるとは。一緒に現場に出向いた。すると「ここは木の葉がさらいやすいからだめだ」というのだ。困り果て何とはなしに「私はどうすればいいのでしょうね」と漏らしてしまった。するとそのTさんが振り返って、そこはどうだと後ろの上の土地を指さした。「どうせ、ここはすぐ木が生えて何も見えなくなってしまうぞ」という。
は道路を背に居を構えることばかり考えていたし、上は少し狭い気もした。しかし、そこは決して悪くはなかった。私は「そうですね」と答えたような気がする。心にさからわないことだったので、その人の言葉でも大切に聞こうと思った。
何度も「お捧げします」と祈ったのだ。進まないのには訳がある。神様のご計画があるはずだとあきらめ、一息ついて、上の土地を当たってみようかという思いになった。それが今の仕事場のある土地である。
その日か、それから何日後か覚えていない。その土地を見回った時、松岡さんと出会った。松岡さんはすぐ裏で鶏を平地飼いして健全なおいしい玉子を採っている人だ。松岡さんに「松岡さんはどうやってこの土地を決めたんですか」と尋ねた。「荒木さんという区長さんがいるんだけれどその人の世話だよ」という。そうかと思っていると「あ、区長さんだ。あの人ですよ。」その区長の荒木勝さんがそこに通りかかったのである。その場で事情を話すこととなった。「よし、わかった」と自分が間に立って労を取ってくれることとなる。
「わしが保証人になるから貸してやれ。いい人間だから」とまで言ってくれたそうだ。知らぬ者の保証人になどそんな簡単になってよいものかとこちらが心配してしまう。
翌日堀江宅を訪ねた。息子の啓一さんが笑顔で迎えてくれて仕事場の土地の話は一晩で決まってしまった。二月も末のことだった。
さてその土地は仕事場と窯場との両方では手狭だ。隣の山に窯を作れば斜面もありちょうどよい。聞けばそこは先述の小原沢喜志夫さんの土地であった。ここも喜志夫さんからの許可が得られて窯場を作る場所もできた。
無くてはならぬ仕事場と窯場の土地の持ち主が、どこへ行ってよいかもわからず、初めて飛び込んだ家に二人が待っていたかのように一緒にいたのであった。本当に驚きであり不思議なことであると思う。
このことが決まった時、教会の祈り会のことを思い出した。信仰を持って間もなくのころ、何のことかもわからぬまま初めて祈り会というものに出た。何か祈って欲しいことはありませんかと問われたので、「まだ独立する土地がきまっていないので、祈って下さい」と願った。植木という人が熱心に祈ってくれた。そのときの願い、祈りがこのようにかなえられることになったのであった。
窯屋根用の木材の準備
話は少し戻るが、ここに土地が決まった時私はまだ登り窯をやるかガス窯をやるか決めかねていた。もちろん願いは登り窯だが誰もがそれでは食べていけないというのが常識のごとくであったから考えたり祈ったりしたと思う。まわり中が燃し木の山だ。
ガス窯はイメージできなくなった。『恵みの受け手として』自然素材を受けて仕事をしようとの思いがある。いのちを神に預け薪を燃やそうと心に決めた。
窯造りに入ることになる。窯づくりを始めるには、窯屋根を先に造る。窯屋根はやはり鉄骨ではなく益子の窯場で見たような栗の柱にしたかった。栗は腐りにくいので掘立柱に使うということは知っていたがどこを探したらいいか分からない。
荒木勝さんにどうしたら手に入るか尋ねに行った。するとちょうど近くの山から切り出したものがあって「それを使いなさい」という。何と目の前に栗の柱が積まれていた。こんなことってあるのだろうか。信じられない気持ちで神に感謝を捧げた。
窯屋根には梁にする松の木もいる。これも荒木さんの世話で近くの山から何本かの松を切らせてもらうことができた。荒木さんからチェーンソーの使い方を習い、生まれて初めて太い木を切り倒した。それから毎日山に入り松の樹皮を剝き、次に栗の樹皮を剝いて窯屋根の梁と柱を用意したのだった。こうして屋根の材料がそろい、窯作り、仕事場作りへと進んでいった。
本当に不思議なことがいくつも重なったものである。
- 住まい探しの時、先輩の樋口宅を訪ね事情を話し終えたところに、ちょうど役場の観光課長が現われ、いい住まいが決まったのであった。
- 土地のことでは、上の土地を見に行くと鳥飼の松岡さんがいて、誰の紹介かと尋ねると区長さんの紹介だと答えたが、ちょうどその時、そこにその区長さんが通りかかり、その区長さんの仲介で土地が決まったのであった。
- 仕事場と窯場の土地は、それが決まってみると、私が家探しに山の中に入り、たどり着ついて事情を話した家に一緒にいた二人の土地であった。行き先もわからぬまま出かけ、最初に訪ねた家に地主となるヨシさんと喜志夫さんが一緒にいたというのも不思議なことであった。
- そこにいた喜志夫さんの言葉で、樋口宅を訪ねようと思い、観光課長と出会うこととなったのである。
- 窯屋の栗の柱のことでは区長宅に尋ねに行くとそこに切り出してあり、それえと言われたのであった。
- 土地についてはTさんが貸してくれず、上はどうだと言ったのだが、もし貸してくれていたら、そこは平地が少な過ぎたし、今の土地での展開はできなかった。道路上のこの土地は図らずも思わぬ広がりとなり、土地はその後、棚田が現れ、湧き水、池、畑、大きなヤマザクラの見える花見台や屋観月台などを含む山の恵み豊かな五千坪ほどの土地へと展開されてゆくことになったのである。
- この流れでいえば、茅葺の家にその後約一年仮住まいした住まうことで、そこでの土間や囲炉裏、五右衛門風炉、家の構造、茅葺屋根の葺き替えなどの体験が仕事場の造りやその後の山暮らしに役立つこととなったのである。
細かくは書ききれないが、自分で計画できない不思議な始まりであった。後で知ったのだが、ここは県立自然公園の中であり、那珂川が流れ、日本に里山百選にも選ばれている。柔らかい雑木山と遠くまでの眺め、静かな里山の落ち着いた風光。この地に「どうやってここに来たのですか」『どうやってここを見つけたのですか』などとよく尋ねられるが、新宿に生まれ育った私がどうしてここに来たのかは自分でもわからない。『本当に不思議なお導きで』としか言いようがないいきさつだったのである。
(了)