恵みの受け手として −ベウラ陶房から

主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたの
みわざの実によって満ち足りています。
主は家畜のために草を、また人に役立つ植物を生えさせられます。
人が地から食物を得るために。

詩編 104:13~14

私は焼き物修行5年目の年、聖書を読み、イエスキリストを救い主として信じました。それによって自然に仕事の方向も定まってまいりました。まず思ったことは、“受け手”ということ、“受け手としての創作”ということでした。

私たちは裸で何も持たずにこの世に生まれました。赤子からの体の成長も、食物、空気、光、水、すべては人間の努力によらず、恵みによって与えられています。 陶磁器造りもまた一方的に素材を与えられた仕事です。“木材が人間にもたらす感覚の充足を、木以外の何物によっても満たすことはできない”とは建築家アルバ―・アールトの言葉ですが、陶磁土も器のために天より与えられた最良の素材であって、故に人はこれを喜び、よしとすると思われます。

また多種の樹木の中に松という火力の強い(しかも自然降灰の美しい装飾効果を持つ)木が存在し、その松材によって得られる温度(1230~1330度ほど)に金属の発色や釉薬の溶点が集中し、生地も焼き締まります。別々の薪、粘土、釉薬がその同一点で反応し合い、しかもちょうど日常の用に応えるものとなることも不思議なこと、大きな恵みと思います。

窯の構造、仕事場や仕事にもできるだけ恵みを生かして組み立てようと思いました。窯屋根の掘立て柱には腐りにくい栗の木、梁には折れにくい松材など裏山から切り出すことから始まって、釉薬の原料は近くから掘り出した土石や民家から出る雑木灰、炭焼きの後灰、自宅の灰、わらの灰などです。

山の中で作陶しながら暮らしてみると、山の草木、土石、一つ一つに意味があって、廃物も少しも無用にはならないことがわかります。自然のほむべき美しい姿とともに、そのサイクルの無駄のなさ、人が生きるための恵みの場としての自然というものを覚えさせられます。

神の造られた物はみな良いもので、感謝して受けるとき、
捨てるべき物は何一つありません。

Ⅰテモテ4:4

ベウラ = 祝福の地
“ベウラ”はヘブライ語で、旧約聖書のイザヤ書の中の一節、
“なんぢの地をベウラ(直訳は配偶)ととなふべし”(文語訳62章4節)によっています。神の愛を得ている、あなたは愛されている、という意味になります。

1984年10月 椿 巌三 記

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