野原いっぱい咲く花を
都合で花の用意が間に合わず、炭点前が終わり、湯の沸きを待つ間に、生徒を待たせ花を取りに山庭をひと歩き。
この時期に何があるだろうかと思うときがあるが、何かが咲いている。誰も通らないような山の隅に咲いている花を見付けて驚く。山に住むようになって、何のためにこんな山奥の、誰も通らない、見付けられるはずもないようなところに、きれいに花が咲いているのだろうと不思議に思った。ある時、「それは見出されて、神が栄光を受けるためだ」と思った。自分にもよくわからない答えに行き着いて頷いていた。
花を取りに出ながら、土手際に来てそのことを思い出していた。ホタルブクロやショウマがいい具合に咲いている。きれいに咲いていることも、花を見付けられたことも嬉しい。ふと、そうか神様はここで私がみつけて喜ぶように花を咲かせてくださったのか、神様は私を喜ばせようとしているのか…と思った。何故か昔聞いた森山良子の歌が思い浮かんだ。
「この広い野原一杯咲く花を一つ残らずあなたに上げる、だから私に手紙を書いて・・・・」
そうか、この歌みたいに神様はこの花をみんな下さるのか、…手紙を書いて?ん?・・そうか、神様ありがとう、と、嬉しくて手紙を出すのか。・・・・そうなのだ。解けた。神は煌く星々から地球の風光、野の花まで、わたしたちが喜ぶように世界を作ったのか。私たちはあの秋の日だまりの素朴な琴のように(註)たまりかねて、「ありがとう」と、感謝の祈りを手紙のようにして届けるのだ。この地上は神からのプレゼント、私たちを喜ばせるためにある。これが神の愛なのだ。
こんな思いが胸に満ちて、稽古場に戻りその話しをした。
先ほどの森山良子の歌の歌詞は正確には次のようだと知った。一番は、
この広い野原一杯咲く花を一つ残らず あなたに上げる 赤いリボンの花束にして
二番は、
この広い世界中の名にもかも一つ残らずあなたに上げる だから私に手紙を書いて
これは神様の私たちへの語り掛けのように聞こえる。学生の頃、花は男が女性に送るものだと思っていた。何で女性がこの歌を歌うのかと考えるような貧しい心であった。この歌が、作詞者の意図はわからないが、神は花を咲かせ、私たちに花も、何もかも贈って下さるという神様の愛の本質に迫るとても素晴らしいラブソングだったのかと、今になってしみじみと思う。

今日の花
ショウマ、蛍袋、キンシバイ、ギボシ、山紫陽花、額紫陽花、縞芦など。
ショウマは姿の良い花で、宗全籠に一種でそのまま絵になります。水揚げが悪く花先がすぐにうなだれますので、生ける長さを決めて、根元を焼いてから生けます。
蛍袋など加えるとうっとうしいかと思いますが、季節の花どうしは不思議によく合います。ショウマが小さい時は秋草の様に数種を生けてもいい風情です。
註:「素朴な琴」~八木重吉の詩によっています。